文化村をでて、横川の駅前にある元祖釜飯屋で昼食。そのあと、旧線路沿いを歩いて、丸山発電所後に向かう。
線路際はすっかり整備されていて歩道ができている。鎮魂碑を見る。
4人で記念撮影。
たしか、この碑には、この碑を建てた由来というものが書いてあって、それを見ると、明治19年から明治26年の開通までに、500人が工事で死亡。
云々という記録があり、それを立てたのは岡山から来た鹿島某である。という碑文があり、これをみた地元の人たちは、この工事を請け負った鹿島組が工夫を虐待したためだという風に受け取っていると聞いていた。
しかし、その当時、信州を始め、日本全国にコレラが流行し、人々を恐怖のどん底に陥れていた。
そして、この工事の現場でも、コレラに感染して死亡するもの多く、500人の殆どがこのコレラによるものだという説もあるが、ま、どちらが正しいか不明とするか。
コレラは、明治19年ころ、神戸に上がった一人の船員がコレラで死亡、それが全国に広がったという説もある。
でも、その碑がなくなっているというのは不思議である。以前確かに写真にとったような記憶があるので探してjみよう。と思っているが・・・・。
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