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突き当たりが江戸川の土手。
その突き当たりにお寺があった。
寺の名前は
真言宗 真光院
街道筋にあったのだろうか。
馬頭観世音の石碑がある。
お地蔵さんが祀ってあった。(1,2,3,4、5)
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江戸川。その向こうが市川の国府台である。
市川真間はその麓にある。
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江戸川の水量は中川に取られて今は少ない。
家康が江戸に入り、利根川の水を銚子の方に流す大土木事業をやるまでは、利根川の水は、東京湾に流れていた。
その当時の江戸川、水を満々とたたえた大河であったはずだ。
そして、このあたりは、一面の氾濫原の湿地帯で、対岸の国府台が一番の安全な場所であっただろう。
市川の国府もこの高台にあった。
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後期の古代の道は、上野の山の豊嶋というところから、ほぼ
まっすぐ、ここまでやってきたはずである。
途中、隅田川、中川、そして江戸川は船で渡ったのだろう。
奈良時代は、低湿地帯がずっと広がっていて、古代の道の上野側の船着き場がどのあたりにあったのか定かではないが、江戸川の土手のずっと手前であることだけは確かである。
ずっと時代が下がって、伊豆に流された頼朝が三浦一族の支援の下に挙兵したときは、まず、房総半島にわたり、兵を集めながら、漁師の船を集め、この江戸川を渡っていったという。
このあたりには、そうした半農半漁で生活を営む集落が点々とあったのだろう。
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