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その中では 大極殿の南につづく、朝集院、朱雀大路の発掘調査が進められていた。この辺から専門用語が出てきて古代史はいやになってしまうのである。
それはともかく、これまで 明日香村の幅300メートルにも満たない地峡帯に宮を定めていた天皇と比べて、壬申の乱て天智天皇の政権を倒した 天武・持統というのは偉かったのだなと思う。
この都ができたのが柿ノ本人麻呂時代である。
天皇と称したのは天武が初めということになっているらしい。それに比べて 天智・鎌足はどうも権力に固執するマキアベリストで好きになれない。(今回の旅のための付け焼き刃的な調べで言うのもなんだが)それにしても、漏刻をつくったのも天智だとすると、彼は民衆へのパフォーマンスでそんなことをやったのだろうか?
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話はそれたが、藤原京というのはあまりに大きすぎて
とても歩き通せないので.
草原にねっころがっていると、頭の上で
ハンドスピーカーでがなり立てているおじさんがいる。
頭をあげてみると、バスツアーできたこれもおじさんおばさん達が
聞いている。説明しているのは この地のボランティアのおじさんである。
そばで聞いていると、昔の話をしていていろいろと勉強になる。
この藤原京には何人ぐらいがすんでいたんですか?
と聞いてみると、即座に
「2、3万人です。」という返事が返ってきた。
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この藤原京にも別れを告げて 進路を西にとると
藤原京の境を南北に通るみちがある。
これが下つ道と聞いて、写真をパチリ。
この道をまっすぐ南に下ると、天武・持統の古墳に至るのだそうな。
この道のそばにあったのが
藤原京資料館。
2階にのぼっていくと、資料室に至る。
そこで、受付をしていたボランティアの女性にいろいろと話を聞く。
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藤原京が今の位置にあるとどうして分かったのか、万葉集の歌
をうたってもらったのだが、途中までで こちらは完全には教えてもらえなかった。
なんでも藤原京を大和三山の真ん中に作った という歌であった。
なるほど、大和三山の中心だとすると あの土壇しかないな という気がしてくる。
写真は 平山画伯の藤原京のイメージ。大和三山が右から 香具山、耳成山、畝傍山 がくっきりと描かれている。
藤原京全体のジオラマや、大極殿の3DCGがあったりして資料館では随分勉強になった。
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