古代の道 飛鳥 2007.5.12〜13

藤原京は原っぱだった。下は醍醐池。

やがて、右手に公園のような草地が見える。
これが藤原京だ とおもったら やはりそうだ。





道の右手に四角い池がある、池の端の大きなエノキの木があるので
なにかいわれがありそうだと近くに行ってみたところ、
持統の「春過ぎて・・・・」の万葉の歌碑があった。
この池は後で聞いたが 醍醐池といって、藤原京の内裏があったところらしい。後世 溜池になったので、まだ、発掘調査が行われていないそうだ。


「春過ぎて夏来たるらし 白たへの衣干したり 天の香具山」巻1-28 持統天皇

 

 

藤原京 大極殿跡という碑がたっている
盛り土がある、この盛り土のことをこの地域では
土壇というのだそうな。
土を締め固めながら盛り上げると
何百年、いや 何千年と持つのだそうだ。
藤原京発見のきっかけは この土壇の発掘調査からはじまった。
この土壇は江戸時代の本居宣長が藤原宮のあとではないかと推定していたのだが、
戦前の発掘調査を行い、とてつもなく大きな建物跡が出てきたことから、ここが日本書紀にでてくる藤原宮の跡だろうということになった。

その後の現代に続く発掘調査で、この都は、縦横100メートル位の碁盤の目をした都城制をしいた日本で初めての都市計画された都であったらしい。そして、その規模はひょっとして 奈良の平城京をもしのぐのではないかといわれている。上ツ道、中ツ道、下ツ道はこのときの南北に走る都城を基準に決められたのではないかと言われている。

内裏真後ろの山が耳成山。

内裏左のラインが下ツ道になった。

 

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