2008年4月19日〜21日

4.讃岐の南海道 その3
国分寺の町に入り、讃岐国府跡へ

<讃岐国府は奈良時代には、四国の入口の国府として、
碁盤の目の都城を敷いて広い範囲に及んでいたらしい。
実際に言ってみると、純農村地帯の中に遺跡があり、他にはなにもない。
それは、奈良の明日香村の雰囲気になんとなく似ている>

 

 


讃岐国府を求めていくが、分からない。
電車が走っていた。讃岐線のカラフルな電車である。

電車の鉄橋があった。駅に行くことにする。






ここの駅名は 「讃岐府中」無人駅だ。
階段を上って、ホームに行く。

電車がやってきたのでパチリ
ホームに止まり、
2,3人の乗客を降ろして走り去る
駅の案内板
駅前の案内地図にあった
讃岐国府跡というのを頼りに
車を走らせる。

 

 



橋を渡り、二つめの小さな道を左折、
線路を越えていった。
迷子になりつつ、近所の人に聞いて、
やっと讃岐国府跡にたどり着く

道案内には国司館跡と書いてあったから、
それではないだろうと思ったのが間違いだった。

讃岐国府跡には、こじんまりした石垣に囲まれ、
大きな石碑が建っていた。


律令時代の国府は条坊という道を
碁盤の目のようにつくった都城であったらしい。
今も讃岐国庁に関連すると思われる
地名が残っているという。(案内板

田んぼの間の小径を通って
鼓(つづみ)が岡神社に行く。

 

 


資料によると、国府跡の西よりの丘にのこる鼓が岡神社は、
国府に附属した駅家ではないか推定しているが、
本当かどうか分からない。
8052 案内板
鼓が岡神社にいってみると、
古い神社らしいことは分かる。
鼓が岡神社由来の案内板
しかし、南北朝の時代にさかのぼる案内はない。

なんでも崇徳天皇が流されたところらしい。
をはやみ 岩にせかるる… の句である

 


 




岡の上から、JR讃岐線、国府跡を見渡すことができる。

道真の詩から駅家には望楼があり、
その上に太鼓が置かれていたとあることから、
やはり、見晴らしのよいところに駅家をつくったのだろうか?

神社から国庁跡を見る
でも、国庁を見下ろすようなところに駅家をつくるだろうかという疑問も残る。

駅家はむしろ道路沿いの交通の便利なところ。国庁などは少し奥まって安全なところを選ぶのではなかろうか。

金比羅さんの参道

その日は、金比羅さんの麓にある琴平町「すし駒」という門前の旅館に泊まる。
次の日は、金比羅さんにお詣りをして、満濃池をみて高松空港から東京へ帰る。

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以下は資料からの孫引きである。
菅原道真が讃岐国府に国司として赴任したのは、仁和2年(886)。その年と4月7日、着任するとすぐ国内を巡視したのだそうな。その頃の讃岐国の経済は破産状態で、その10月に、有名な「寒早十首」を詠む。


何れの人にか 寒気早き
寒は早し 駅亭の人
数日を忘るるの口 
歳を終うるまでに 客(たびびと)を送る身
衣(ころも)は単(ひとえ)にして 風は病を発し 
業を廃すれば 暗(むな)しく貧しきを添う
馬さえ痩せて行程渋らば 鞭笞(むちしもと)自らに受くること 頻(しき)りならむ

(大意:一番寒さがこたえるのは誰だろう。それは駅亭の馬子だ。何日も食べ物を口にすることなく、歳老いるまで客を送る身で、着るものといえば、単衣の着物、風にあたって病気になって仕事をやめれば、貧しくなる。馬も痩せて進みたがらないのでしきりに鞭を受けている)
菅原道真がその後、民衆に愛されてきた理由が分かるような気がする

翌年の春の領内巡視のとき、彼は「行春詩」を詠み、その中で駅家を歌っている。

駅亭楼上 三通の鼓 公館窓中 一点の燈

巡視に疲れて夕暮れ時に国司館に戻ってくると、駅亭の楼上には3つの太鼓が見え、役所の建物には 灯火が一つ灯っていたというような意味か。
駅家には楼がありその上に太鼓が置かれていたことが分かる。駅家への使いが来たら太鼓を打って知らせたのだろうか。
これで南海道 古代の道探索は終わり、

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