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明治丸 その2

大きな操舵の輪

その後ろにある舵を曲げる装置


操舵輪の後ろの箱を開けると
帆走のときと、機走?のときに舵を切り替えるクランクのような装置があった。。

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そんなこんなで、私たちはこの船のことを詳しく聞くことが出来た。この船は機帆船で、2本マストのスクーナ形式。

スクリューは2つ、蒸気エンジンも2つ。

このブルーのテントになっている下に蒸気エンジンがあって、当時は機帆船といっても、港の入出港くらいしか、蒸気を使わず、沖にでると、もっぱら帆を使っていたとのこと。
省エネ船である。


 



まず、ブリッジの由来から、
当時は、動力船は両舷の水車から始まったので、水夫が両側の水車を見張るために設けられたのがブリッジだそうな。
そして、スクリュー船になっても、名前が残り、船を操縦するところをブリッジというようになったということ。

船長室では、小さな操舵輪と机の上の海図、三角定規、羅針盤があるのみ、

船長は何もせず、海図をにらみながら、指示をだすだけだということだ。

実は、ここには、ボランティアのおじさんがいて、彼から説明を聞くことになった。
(おじさんといっては失礼だが、どう見ても、元東京商船大学教授であった方だとあとで推測)

まず、この船は、帆柱は最初 2本で、明治29年、商船大学に払い下げられて、練習船になったときに、回収して、真ん中に帆柱を一本付け足したもので、建造は明治のはじめ、イギリスのグラスゴーのネピア造船所でつくられたという説明から始まった。


「スクーナ?どおりでスマートな船体だと思った」といったものだから、先生はますます説明が詳しくなった。

イギリスで完成したのが明治4年?だったから、この船を日本まで回航したときは、開通したばかりのスエズ運河を通ってきたそうだ。

この船は、明治天皇のご用船ではなく、東京大学の水産調査船として活躍、時々、明治天皇が乗っていたということらしい。
また、明治29年に商船大学の練習船になったのだから、そのあと、昭和4年に昭和天皇が和歌山の神嶋を南方楠南の案内でまわったときに昭和天皇が巡幸に使った船が明治丸かと思っていたがそうではないらしい。
そもそも、昭和天皇は、船でいったのかしら?

ここで特筆すべきは、羅針盤の両側にある丸い玉
これは鉄で出来ていて、この玉の距離を調節することで、磁石がちゃんと北を指すようにしているとのこと。

 

そして、机の上にあるひものついた鉛の錘り。
これは、サンディングレッド(sanding lead)といって、舳先でこの錘で水深を測りながら、船を進めていったそうだ。日本語で 錘鉛とでもいうのだろうか。

レッドという言葉が分からなくて、何度も聞き返した。鉛という意味だそうな。

ここで、舳先に立って水夫がこの錘を垂らしながら水深を測る様子は、大航海時代の紀行文や、江戸時代の樺太探検記などに出てきたような気がする。
大航海時代は、探検船の主な目的は測量をして海図をつくることだった。
日本にきたアメリカやロシアの船も沿岸を測量まくったらしい。
ペリーだったか、お礼に伊能の日本地図を渡したら、その正確さにびっくりしたという記録があるのも、彼らが日本を測量していたからだと思う。

もう一つ思い出したのは、文学的な意味である。若い頃読んだロシアのドストエフスキーの小説に「人の心を錘鉛を垂らして測ってはならない」という言葉が何度もでてきた記憶がある。錘鉛には、そういう意味もある。


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