古代の道  四つ木〜立石 2007.10.07

立石の碑は立石稲荷だった。

 

 

やっと見つけた立石稲荷のご神体というのが、地面にちょっと、長方形のように顔を出した岩で、これは掘っても掘ってもずっと地面の奥深くまで根を張っている岩だそうな。
葛飾区の教育委員会の看板にもその由来は分からないと書いてある。
立石というのは なんでも、古代の道の里程標のようなもので、立石という地名は全国にたくさんあるが、その立石らしきものが現存しているのは、「南海道」の道筋にあたる淡路島と、「西海道」の肥後道にあるものと二つくらいということだが、写真で見る限り、二つともとても大きなどっしりしたものだ。
ぜひ、見てみたいと思っている。

この立石様は、立石を立てた基礎であり、後世に移設されたものが現在に残っているのではないかと「古代の道」には書かれているが、このようなものを移設するだろうかと疑問に思う。いろんな神社に岩が祀ってあるが、これは大岩で地底深くどこまでも続いている霊験あらかたなものだ、なんていわれて、そんなことあるのかと思っても誰も発掘調査をしたこともない。
だれがこんな神聖なものを移設するのだろうと思う。
ひょっとすると立石の移設説は間違ってはいないだろうか。

 

 

 

立石さまは、実は古墳だった?

「立石様」補注 2010.11.20
葛飾区にある立石様は、ひょっとして円墳ではないか
としている、祀られているのは、石室の天井石で
その表面がわずかにでている石はさわると御利益があるというので
ずいぶんと削られているが、実は、古墳の中心部である石室の天井石で、関東の多くの石室と同じように、房州石でできているという。
そうだとすると、この石は、はるばる房総半島の鋸山というところから切り出されて運ばれてきたことになる
ほんとのことは発掘調査をしないと分からないという
古代の道の道標の跡というよりも、こちらの方が説得力がある

参考:
祥伝社新書 
東京の古墳を歩く
大塚初重著
2010.11.10発行

地図を見ると、この奥戸街道の北に、もう一本直線路がある。今は生活道だが、この道を古代の道に想定すれば、ちょうど、この立石様の傍を通り、中川の土手にぶつかり、そこに渡船場があったと考えてもいいのではないかとふと思ったりした。


そうすると、この立石様は、ちょうど、渡船場の脇に立っていたことになり、合理的ではないかと思うが、
そうすると、上野からの直線路はどこかで曲がらなければならなくなる。 ちょうど あの踏切あたりでまがったのだろうか?
これは、地図を見て検討しなおさなければならない。

税とりあえず、立石大明神は、立石稲荷と言うことで地域の人がまつってあったので、今日の目的は果たした。帰途につく。

それにしても、今日は市川真間まで行こうとおもったのに、行程わずか2.3キロというのはあまりにも情けない。


2007.10.07

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