2008年4月19日〜21日

2.讃岐の国の南海道 その1
引田より国道11号に沿って、白鳥、三本松まで

馬宿沖合の小島
瀬戸内の海は静か、馬宿沖合に小島が見える。
近くの相生駅の案内によると、三つあり、
左から毛無島、通念島、松島とあるが 
3つ目の松島は重なっているらしい。

 

 

 



4月20日 9時出発
この日は讃岐平野を縦断する南海道をたどる。距離は100キロにもなるのでちょっと無理な行程である。
高松中央で高速に乗る

昨日立ち寄った津田の松原PAを通り過ぎ、引田というインターでおりる

引田の町中を通り、大坂峠方面をめざす。

やがて 海に出る。海沿いの道

讃岐の海もきれいだ。

大体 この路が 昔の南海道の道筋なのだろうか?


 

 

 


駅家があったとされる馬宿というところを通り過ぎて、JR高徳線の相生駅に行く。

相生駅に入るT路路
このあたりになると、お遍路さんもちらほら見かけるようになる。お遍路姿で ただ黙々と少し早足で通り過ぎていく。

相生駅は、単線の無人駅だ。
駅のそばの畑には花が咲いていた
そういえば、少し遅い春なのだ。

駅の案内板には
「7世紀半ばの律令時代から当時の官道であった南海道の讃岐では東の端の駅路「刈田(かりた)駅がこの地にありました」と書いてある。
また、源平の戦いでは、源の義経が屋島の平家追悼のために阿波から大坂越えをして讃岐の地に入り、はじめて人馬を休めたのがこの馬宿であったといわれている。また産業としては、かって讃岐三白(砂糖、塩、綿)の一つに上げられていた和三盆糖の生産地である。(昭和61年3月 香川県)
と説明してある。
「完全踏査・古代の道」には、駅家の名前は「引田」となっている。いつ名前が変わったのだろう。

 

 

和三盆をつくっているお店に立ち寄る。
江戸時代のころの砂糖づくりの工場の様子が描かれている。

牛を引かせてサトウキビ搾り
重しで白糖づくり
牛のサトウキビ搾り現物
牛を引かせてキビから砂糖を絞る石臼。
沖縄でも 同じような方法で砂糖絞りを実演していた。だたし、牛ではなく、水牛だった。(


江戸中期からだろうか、スペインが南米植民地で砂糖をつくらせ、それをオランダ人が仲介して、長崎に持ち込み、高い収益を上げていた。日本に饅頭などができ江戸で茶菓子として消費されるようになった頃だ。日本では砂糖を白くすることが長い間できなかったが、この砂糖の漂白技術をいち早く実現したのが薩摩ではなく、讃岐だったとは。この辺のことはシュガーロードという本に書いてある。

お店に入ると()お茶と砂糖菓子のサービスがあり、
手作業で砂糖をしぼっているのはここだけと中を見せてくれる。いくつかおみやげに買う

 

 


駅家があったとされる馬宿三叉路、南海道は、大坂峠からおりた路が海岸通りと合流し、西へ向かう。

馬宿の交差点には黒瓦の民家がならんでいる
お遍路さんがこちらに歩いてくる
バス停には、馬宿と書かれている。
四国番外 東海寺という看板がある。
三叉路にあった小さな馬頭観音


海側からみると、寂しい街道の風景になる。
遠くに、阿波と讃岐を分ける山並み。

 

 

 

「通賢こみち」という小さな路地を通っていく。
路沿いに小さな水路があり、水が流れている。
水路が流れている街は良い街たと思う。
九州の日田もそうだった。

路沿いの小さな空き地に案内板があった。
「久米栄左衛門通賢 生家跡」とある。
船頭の息子で、大坂の間重富に師事して天文学を学び、藩命により最初の讃岐地図をつくる。
高松藩士になり、塩田開発、砂糖製造、別子銅山の改修などで財政改革の巧あり、
火縄を使わない雷こう式雷管銃の発明は世界初だという。
1841年馬宿にて死す。とある。
讃岐にこういう人がいたということを知ることもまた、旅の興味の一つである。

 

 

 


近くに大きなお寺があった。
八重桜が咲いていた
お寺の名前は、西光寺 浄土真宗お東さん。
日田にあった寺も西光寺。
東京の立石での古代の路歩きで6号線脇にあったお寺も西光寺。なんだか、お寺にとても詳しくなった。
ここから 大坂峠あたりを一望する。

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